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第9話 中国人が書いた日本書記  田村誠一著 [日本の歴史]

古代史の怪 (1)

 日本は将に古代史の歴史書ブームである。 有難いことに日本の有名な学者は毎年の様に 次から次と最新本を出版されている。
 この学者たちも当然他の他の学者の本には目を通された上で本をお書きになったことだろう。
 従って同一学者の本は、古い出版には一々目を通さないでも古代史が分かるから有難いことだと申上げたのである。
 古代史の文献と古墳は補完関係にある筈なのに、お互いに他人の領分には立ち入らないのが、日本の古代史の珍しい所である。
 読者は古代史をフィクションとしてではなく読まれるなら、先づこのことを考慮に入れられることだ。
 例えば古墳の学者が仁徳天皇や崇神天皇の古墳の話をされる時には、古事記や日本書紀を意識された筈である。
 箸墓は大和でも巨大古墳に属する。しかも日本書記では崇神天皇の御世につくられたと書かれている。
 古墳時代が4世紀から始まると発言されるからには、箸墓は4世紀の最初ではない。



           ― 3ページより引用 ---


私からの一言
 いろいろ迷いましたが、前回の 田村誠一氏著 「第8話 吉備にあった 漢の古墳」の次の号の
「第9話 中国人が書いた日本書記」 から書き始めることにしました。


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結言 [日本の歴史]

日本はマルコポーロまでが、遠方の人々があこがれる位住みよい国だった。これを伝え聞いた少数民族が、こぞって、一民族単位で期限ゼロ世紀に移住して来たのである。
 祖国のある大民族が一部だけ日本に来ることは考えられない。
 揚子江は国際河川でシルクロードのかなたから、チベットと雲南の省境をも流れていた。
 中劉、下流の住民は上流から降って来る人を阻止出来なかったのである。
 大部分の人達はチベットや雲南から、越に下って、海南島を経て台湾海峡から日本海に対馬海流を利用して皮船で来たことだろう。
 中国の中山王国の人々は白狄人で大半は日本以外には亡命する国はなかったのだ。
 この中国の漢民族等に圧迫された、少数民族が集まったのが日本民族だつた。
 中国はこの民族集団を、日本に何回か基地を築いてまで征服を企てた。しかし全部失敗に終わったのである。
 今こそ建国の由来を認識して、建国当初の苦労した人々に感謝をささげるべきだ。


         ― 63ページより引用 ---



 私からの一言
このページは、最終頁だけあって、タイトルは、「結言」です。
 「日本はマルコポーロまでが、遠方の人々があこがれる位住みよい国だった」

 どうして、遠方の人が、東の端に、住みよい国があることを知ったのでしょうね。

 「これを伝え聞いた少数民族が、こぞって、一民族単位で期限ゼロ世紀に移住して来たのである。
 祖国のある大民族が一部だけ日本に来ることは考えられない」とまとめておられますが、普通は、100年、200年をかけて、日本やって来たのでしょう。そうしませんと、世界で、どこにも使われていない、日本語が、現在も使われている説明にはならないと思います。

 こんなことを言い出すと、おかしいところはいっぱいありますが、「結言」は、
「今こそ建国の由来を認識して、建国当初の苦労した人々に感謝をささげるべきだ」の言葉で、締めくくっておられます。
 これで良いのかも知れません。

ながいこと、ありがとうございました。
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崇神天皇三兄妹(14) [日本の歴史]

魏志倭人伝は卑弥呼のために大きな墓を作ったと書いた。人質を殺したと、さとられないために全くのウソを書いたのである。戦争を中断してまで墓を作ることがあるだろうか。後味が悪いから作文したまでだ。
 日本にやっと完全平和が訪れたのである。これまで日本には大形古墳の経験も職人もゼロだった。吉備には漢が立派な前方後円墳を残した。これよりお粗末な三兄井毛に作れるだろうか。
 外形の前方後円はまねすればよかった。しかし内部構造は知る由もなかったし、石工の職人も居らなかった。
 ミマツヒメのために、墓が作られた。これが国産の大型古墳の一号である。次いで10年後に亡くなった崇神天皇の墓が、墓にくっついて作られたのでる。
日子坐王の墓を恐らく吉備の漢の古墳より大きいのが残されている筈だ。 
 やっと古代史は崇神天皇まで追求できた。全てがあまりにも思いもよらないことだった。



私からの一言
卑弥呼に関する資料は、ネットに限りますと、次のようなものが見つかりました。

卑弥呼の資料
①卑弥呼の墓は、邪馬台国は、どこにあったの?えっ、徳島県?

https://yamatemama.com/himikonohaka/

②邪馬台国の女王 卑弥呼
http://rekishi-memo.net/yayoijidai/himiko.html

③邪馬台国と卑弥呼についてわかりやすく
 https://jahistory.com/yamataikoku-himiko/

④卑弥呼
『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

ざっと、目を通しましたが、「卑弥呼」という名前は、中国の魏志倭人伝という書物に掲載されているだけです。

卑弥呼に関する書籍はいっぱいあるようですが、書かれていることは、どれも正しいという証拠はありません。
 ということで、正しいとは限りません。だからと言って、書かれていることは、まちがっているかといいますと、その証拠もありません。

 
中国に残されている「魏志倭人伝」という書物に、「卑弥呼」という女性の名前が、書かれていることは、事実ですが、単なる小説のようなものかも知れません。
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崇神天皇三兄妹(13) [日本の歴史]

漢の軍隊が九州と吉備を占領していたのは190年まてである。
 この時崇神天皇は40才、妹のミマツヒメ(卑弥呼)は38才位だった。
 義弟の日子坐王は35才位だったろう。日子坐王は久米国で直接漢軍と対じしていたのである。戦線はこう着が続いていた。
 ミマツヒメは丹波で天照大神と月読命の墓守をしていた。
 これから50年後にミマツヒメは、魏の人質に取られて殺された。この妹を取り戻すべく戦ったのが崇神天皇であり、義弟の日子坐王だった。
 この三兄井毛は漢軍と戦って勝ち、魏の無理難題に一歩も退かなかったのである。
中国はこの二つの戦を歴史にカムフラージしても載せないわけには行かなかった。あまりにも大きな犠牲で人民にかくすことが出来なかったのである。
 日本国内の争いなら倭国大乱を取上げる筈もないし、魏の軍使が飛んで来るのもおかしい。
 しかしこの謎は解けたと考えたい。



           ― 61ページより引用 ---




 私からの一言
190年ころまでは、日本史には、漢に占領されていたと記されています。ご存じでしたか。このページでは、 この時の様子を別の角度から書いておられます。多くの日本の歴史書は、日本人同志が、戦をした歴史ばかりです。
 このページは、誰と誰が、戦をした言葉はありません。
 1ページの中に、多くの事柄を書いておられます。

「全てがあまりにも思いもよらないことだった」 とは、どういう意味でしょうか。
なんだか、ため息が聞こえるような気がします。
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崇神天皇三兄妹(12) [日本の歴史]

魏は三国志の時代の北の国でここの船は湖水とクルーク用だから、カイでこぐ船の構造である。
海洋に出れば、一たまりもなく、難破するだろう。
 呉や蜀の船は揚子江の三峡の険を190キロも遡航出来る軽い帆船だった。
 シルクロードの奥地やチベットから日本海沿岸に直行できる皮船があった。
 丸木をくって作った船は、あくまでも近距用であった筈だ。
 古代史の謎は、古代の船を使い分けることで解ける様だ。
 難升米は魏の都に半年滞在中に軍用道路を建設したのは、魏の軍隊を港まで運ぶ専用道路だと述べておいた。
 この道路を必要とする位の大軍が、日本に派遣されて恐らく全船沈没した筈だ。卑弥呼を殺したあとの戦死者千余人と魏に逃げ帰ったのが20人にす過ぎなかったことからの推察である。上陸に成功した人はなかったのである。
 三国志等を眺めると西域等でも大作戦には20万以上の動員が多いことがヒントだ。



         
      ― 60ページより引用 ---


私からの一言
 このぺージには、急にシルクロードの名前が登場しています。
日本海を渡る航路も膨大な距離ですが、シルクロードと呼ばれる、絹を運ぶ川のことを記しておられます。

絹のことを書かなくては、日本の歴史は、成り立ちません。 日本の歴史家は、どうして、世界で一番、絹を利用した国が、日本であったことを書かなかったのでしょうか。

「魏は三国志の時代の北の国でここの船は湖水とクルーク用だから、カイでこぐ船の構造である。
海洋に出れば、一たまりもなく、難破するだろう。
 呉や蜀の船は揚子江の三峡の険を190キロも遡航出来る軽い帆船だった」

著者の田村氏は、上記の文書に見られるように、魏の国の三国志の時代に居られます。 それだけではなくて、早くも、革製の船に乗って、チベットから、船旅に出られています。船は想像だけではなくて、二枚の写真が添付されています。
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崇神天皇三兄妹(11) [日本の歴史]

女王卑弥呼、男王卑弥弓呼とわざわざ男王を頭につける必要があったか。
 兄妹であることを意識してこんな名前をつけたのである。狗奴国王日子坐王では兄妹関係がハッキリしたいので、わざとこんな名前をつけた筈だ。
 発音を手がかりに該当者を探しても無駄な努力である。
卑弥呼と卑弥弓呼がもとより和せずとは何事か。衆を惑わしているのは、難升米ではないか。罪を日本人同志に背負わせた卑劣な書き方である。
 しかもうまく呼寄せて二人共毒殺する意図がありありと分かる。
二人を殺せば兄の崇神天皇の軍隊は孤立し崇神天皇が殺される筋書きではないか。
  正始八年にも軍旗が交付された。これは魏のの本軍の軍旗である。何万か何十万かの水軍が派遣された。
 同時に魏から軍使が丹波にやって来て、人質の卑弥呼を殺してしまったのである。敗戦と魏志は書けないから原文を読んで欲しい。



       ― 59ページより引用 ---




 私からの一言
「女王卑弥呼、男王卑弥弓呼とわざわざ男王を頭につける必要があったか。
 兄妹であることを意識してこんな名前をつけたのである。狗奴国王日子坐王では兄妹関係がハッキリしたいので、わざとこんな名前をつけた筈だ」

この部分の意味が理解できなくて、三回、読み直しました。
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崇神天皇三兄妹(10) [日本の歴史]

卑弥呼を人質にして義弟の狗奴国王に降伏をせまったのである。
 こんな卑劣なやり方を日本人が行ったことはない。魏国や三国志の時代の戦略家に取っては日常茶飯事である。
 瀬戸内海沿岸には崇神天皇すなはち兄の軍隊が配備されている。この軍隊を久米国に北上させないために、瀬戸内海に魏の水軍を一部配備するために率善中郎将が2人ひつようだった。
 狗奴国が卑弥呼奪回に出動する場合の両面作戦のために必要だった。
 正使八年(247年) に太守即ち朝鮮総督がわざわざ1500キロ離れた魏の都に、狗奴国との交戦状況を報告に行った。
 如何に重大戦争が起きたか、しかも朝鮮軍だけでは始末にに負えない魏国の水軍が出動しなければならない事態になったのである。
和人伝では狗奴国の男子卑弥呼もとより和せずとある。和せずとは口説きに乗らなかったことである。
 和人伝は魏の作戦をバラシテ呉れたのである。



          ― 58ページより引用 ---




 私からの一言

「 和人伝では狗奴国の男子卑弥呼もとより和せずとある。和せずとは口説きに乗らなかったことである。和人伝は魏の作戦をバラシテ呉れたのである」

 このページは、魏志倭人伝の読み方を教えてくれる 記事でした。
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崇神天皇三兄妹(9) [日本の歴史]

崇神天皇三兄妹(9)
日本の敵状を調査するために、お土産を又沢山持って来て人民をだましたのである。少なく共日本国内を敵の将軍が見回っても、不思議に思わない様では魏志倭人伝を解説は出来ない。
 正始四年(243年)には使者を魏の都に出しこの時率善中郎将を1名増加した。魏国は益々戦争準備を充実させたのである。
恐らく日本海側と瀬戸内海から、まったく離れた所から侵攻するために難升米と邪狗二人に増加した筈だ。
 正始六年(245年)に難升米に軍機が渡された。これこそ戦争開始、宣戦ふ告である。
 これまでは卑弥呼の義弟卑弥弓呼(イコイマス、日子坐王) を口説いて、ワイロで卑弥呼のもとに呼寄せる様工作しただろう。
 しかし日子坐王は誘いに乗らなかった。難升米がこの時もらった軍機は魏の朝鮮駐留軍が日本攻撃に正式に出動命令が出たことである。和人伝の解釈を中国人に聞く位おかしなことはない。
人質にして魏の軍隊が守備をかためた。



             - 57ページより引用 ---




 私からの一言
 「 恐らく日本海側と瀬戸内海から、まったく離れた所から侵攻するために難升米と邪狗二人に増加した筈だ」

恐らくと書いてありますが、日本海側と瀬戸内海の両面からの攻撃は、常識な戦術と思われます。
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崇神天皇三兄妹(8) [日本の歴史]

難升米が魏の都に行く時男性生口四人、女性生口六人連行した。生口とは中国語で捕虜であることは難会か述べて来た。
 日本人が日本人を捕らえて、ハイ捕虜ですと差し出すことがあるだろうか。
 難升米が魏国のスパイだから、連行した日本人は捕虜と云えるのである。生口はもともと奴れいではない。捕らえて奴れいにに使用したので、前後関係をハッキリさせるべきである。
 107年の師升の事件でも述べたが、日本人捕虜は通訳につかったのである。
 魏志倭人伝で、正始元年始は240年である。この時朝鮮総督と一緒に将校がやって来た。歴史に載せなければならない位偉い将校がついて来たのである。表敬訪問なら都だけで帰るべきだし、偉い将校をつれて来るのは疑問を持つべきだ。
 日本国内の軍備を調べるのが本来の目的ではないか。日本各国の地理から、人口を調べる目的だから間違って居る筈がない。
 魏志倭人伝を陳寿は日本を知らずに書いたと難ぐせをつけた日本人がいる。



           - 56ページより引用 ---




 私からの一言
 このページは、残された歴史だけを見ていたのでは、解らない歴史を書いておられることになります。
捕虜とはどのような身の課は、現在の日本人には、想像することは出来ません。

これぐらいの推理は許されるではなくて、必要なのではないでしょうか。
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崇神天皇三兄妹(7) [日本の歴史]

スパイの難升米は魏の都からの、お土産を卑弥呼用とそれ以外の目的に分けてもらって来た。なぜ分けるべきか。おかしくないか。
 一部は卑弥呼用であり、残りは人民にあまねく展示して魏の皇帝が日本人を如何に、いとおしく考えているかを伝える目的まで書かれている。要するにスパイ工作用ではないか。
 日本人を犬扱いで、チンチンしろ、チンチンしたらあげると見えすいたやり方である。
 日本人の代表として日子坐王が姉の卑弥呼の所に取りにこいではないか。
 おびきよせて二人共毒殺である。三国志の時代である。この時代の最も常識的な戦略が日本で取られなかったら、それこそ不思議であり謎と云うべきだろう。
 中国人式に和人伝を解釈すべきだったのである。日本人のお人よしには魏志倭人伝は手に負えなかった様だ。
 難升米が日本に帰ると、すぐ魏の都から使者が来た。表敬なら、都だけでかえるべきなのに邪馬台国まで来たのは敵状視察である。このために魏のお土産を先づ見せたのである。


-             - 55ページより引用 ---




 私からの一言
著者は、難升米が魏の国より貰って来たお土産は気になったようです。記録に残っていたことが重要なのでしょう。これは、現在の国同士でも、大切なことでしょう。
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